カトリック桐生教会
何これ?
「みねさんの あぁ、そうなんだ塾」の資料
これからキリスト教を知りたい・学びたいという方々に向けて教理 (カトリック教会が真理と認めている教え・信仰の基礎となる理論)を解説しています。 項目をクリックすると詳細がPDF形式で参照できます。

第1回 キリスト教の〈教理〉(カトリック教会が《真理》と認めている教え・信仰の基礎となる理論)についてお話していくことになりました。第1回は、これからの『あぁ、そうなんだ塾』の内容と予定についてお話します (続きを読む、PDF形式)。
第2回 さて、遠藤周作氏の『わたしが・棄てた・女』という小説を通して、お話していきたいと思います。 (続きを読む、PDF形式)。
第3回 前回は、《偶然》・《出会い》そして《必然》について書きました。あなたの人生を振り返り、何か少し心の動きがあったでしょうか。今回はまず、私の昔ばなしにおつき合いください (続きを読む、PDF形式)。
第4回 前回は、「<偶然>を<ただの偶然>で済ますか、あるいは、<何か眼に見えない存在が導いてくれたのではないか> ・・・、どちらで捉えるかが信仰の道へ歩み出すか、それとも引き返すかの≪分かれ道≫です。あなたはどちらを選びますか?」という、みなさんへの問いかけで終わりました。今回は、みなさんがどちらかを選ぶとき、 素晴しいアドバイスが『新約聖書』にあることから始めましょう (続きを読む、PDF形式)。
第5回 前回は<祈り>について書きました。私たちの一日は祈りから始まり、祈りで終わります。自分の宗教についてはっきりと自覚していなかったころは、<何に対して>祈っているのか、あいまいだった自分をおぼえています。「こんなことでいいのかな・・」と、いつも思っていました (続きを読む、PDF形式)。
第6回 ミツの吉岡に対する「可哀そう」という感情は、自分が<上から目線>で困っている人や弱い人を見下して感じるものではなく、彼女の<こころの底からあふれ出すもの>であり、『本能的に他人の哀しみの上に自分の哀しみを重ね合わせざるを得ないもの』であると広石氏は言います (続きを読む、PDF形式)。
第7回 前回、「罪」という言葉を耳にすると、わたしたちの多くは「犯罪」にあたる行為を思い浮かべる・・・と書きました。それらはもちろん、キリスト教が説く「罪」の中にあります。でも、それだけではありません (続きを読む、PDF形式)。
第8回 前回は、「罪」とは人間としての <的を外した行為> であり、 <良心> がわたしたちの行為を、それが「人間としての的を射ているものかどうか」を判断している。その <良心の声> をキリスト教では ≪神の声≫ として受け取る − ということを書きました。今回は、わたしたちが <多くの人々の中で生きる存在> であるがゆえに問われていることについて考えていきます (続きを読む、PDF形式)。
第9回 前回は、わたしたちは知らず知らずのうちにまわりの人に迷惑をかけている。そして人間としての弱さ、未熟さ、そして自己中心性から、他者の人生を傷つけたり、苦しめたり、悲しませたり、負担をかけたりしている ・・・ ということを書きました。きょうは、キリスト教が示す【罪】とは何かをみていきましょう (続きを読む、PDF形式)。
第10回 前回、わたしたちの罪は <自己中心性=エゴイズム> がもたらすものであり、人間としての成長はそこから抜け出すことにあると書きました。きょうから再び『わたしが・棄てた・女』に戻り、ミツにささやく <ある声> について考えていこうと思います (続きを読む、PDF形式)。
第11回 やっと手に入れた夜勤料の千円。黄色いカーディガンと吉岡の靴下を買うための千円。しかしミツは、「それを田口さんの奥さんと子どもたちのためにつかってくれ」と頼む( <くびれた顔> の声を聴きます。自分のためにひとが気の毒な思いをすることや、不幸になるのを見ると悲しい気持ちになるミツはどんな行動をとったのでしょう (続きを読む、PDF形式)。
第12回 前回は、ユダヤの人びとを教え導く立場の祭司とレビ人が、追いはぎにあって息も絶え絶えな旅人をそのままにして立ち去った・・・という話しでした。今回はこの旅人を見たサマリア人は何をしたかをみていきましょう。そして、なぜそれが可能だったのかを考えてみます (続きを読む、PDF形式)。
第13回 前回は、サマリア人が <敵対関係> にあるユダヤ人の旅人を助け、旅人も <敵> であるサマリア人に助けられたのは、お互いをひとりの人間として何の差別・偏見もなく受けとめる心をもっていたから・・・ということを書きました。きょうは「<隣人>とは誰か」という律法学者の質問に対して、イエスがどう答えたか−をみていきましょう (続きを読む、PDF形式)。
第14回 <隣人> とは、特定の人や集団を指すものではなく 「自分がなっていくもの」 です。イエスは「あなたも隣人になりなさい」と祭司やレビ人だけではなく、 <わたしたち> にも言っているのです (続きを読む、PDF形式)。
第15回 前回は、ミツと吉岡のそれぞれの人生でおこった出来事、そしてふたりの再会についてみていきました。『ぼくの手記』(四)〜(六)では特に、男としての性的欲望にとらわれて行動する吉岡の姿が書かれていました。男のずるさ・醜さにうんざりした女性や、彼の中に自分を見る思いがした男性もいたことでしょう。では、私たち人間の異性を求める性的衝動(性欲)は、 <けがらわしく・みにくく・暗い> ものなのでしょうか? (続きを読む、PDF形式)。
第16回 前回は神による天地創造と、科学と宗教について書きました。「あぁ、そうなんだ!」と納得できなかった部分があったかもしれません。もう少し先生方のお話を聞いてください。きょうは『聖書』が <神話> や、さまざまな <物語> で書かれている意義について考えていきたいと思います (続きを読む、PDF形式)。
第17回 前回は、『聖書』が <神話> をはじめとするさまざまな <物語> で書かれている意義について考えてみました。 <物語> を通して語ることにより、人間の生の根本・根源にかかわる 《真理》 がみえてくる − ということでした。きょうからは神による私たち人間、そして <おとこ> と <おんな> の創造についてみていきます (続きを読む、PDF形式)。
第18回 前回は、人間、そして男と女の誕生について書きました。神と人間、そして男と女は、互いに <パートナー> として造られたのでした。今回は <男と女> の出会いと、その 《性》 がもつ意義を考えてみようと思います (続きを読む、PDF形式)。
第19回 前回は、この世界の中で単独の <私> はどこにも存在せず、『いるのは、ただお互いを支え合っている <私たち> という存在だけ』であること。そして、男と女が『一体となる』とは、男女の <性行為における一体性> というだけではなく、同時に互いを「自分にふさわしい助け手」とする <人格的な一体性> を意味していることを書きました。性の交わりは、男と女の人格的な出会いの体現であると言えます。さて、『わたしが・棄てた・女』のつづきをみていきましょう (続きを読む、PDF形式)。
第20回 前回は、ミツがハンセン病の疑いがあると診断され、その絶望のゆえに彼女は人生において初めて他者を憎み、孤独とはどんなことなのかを知った ・・・ ということを書きました。私たちは人生を重ねていくと、たくさんの <うれしいこと> ・ <たのしいこと> がある一方、それにまけないくらい多くの <かなしいこと> ・ <くるしいこと> があることがわかってきます (続きを読む、PDF形式)。
第21回 前回は、いちばん重い病は「自分が誰にも必要とされていない」と思い込むことであり、 <愛> という言葉は <大切にする> あるいは <大事にする> という意味に受け取り直せば、敵さえも愛せるのではないか ・・・ ということを書きました。ハンセン病のために「誰にも愛されていない」と思うミツは、その運命をどう受け止めながら生きていくのでしょう。きょうは「苦しみ」の意味について考えてみましょう (続きを読む、PDF形式)。
第22回 『あの人たち、いい人なのに、なぜ苦しむの。』 ・・・ このミツの問いに答えられる人はどれくらいいるのでしょう。『不幸や泪には必ず大きな意味があるはず・・・』 と修道女スール・山形は言います。 <大きな意味> とはいったい何なのでしょう? これから考えていきましょう。さて、前回は苦しみがどこからもたらされるのかを書きました。きょうはその3つ目と、苦しみから解放されるためにはどうしたらいいのかを考えていきたいと思います (続きを読む、PDF形式)。
第23回 ハンセン病の疑いが晴れたミツ。それは、ずっと忘れられなかった吉岡にまた会える希望を取り戻したことでした。『もう、二度と(病棟には)戻ってこないな』と思ったのは当然でした。絶望の暗闇の中に突然、光が差し込んだのですから。今回は、その後ミツがどのような決断をして、新しい人生を歩みはじめたのかをみていきましょう (続きを読む、PDF形式)。
第24回 イエスは、 金も、力も、地位も、健康にも恵まれず、貧乏に打ちひしがれて、望みもなく、頼るものとてなく、神頼み以外には残された道もなく、吐くため息も弱々しげな人びとこそ、〈しあわせ〉だと言います。私たちの〈常識〉とは正反対なことばです。なぜなのでしょう?今回はこのことについて考えていきましょう (続きを読む、PDF形式)。
第25回 前回、〈貧しい人々〉とは 「犠牲を強られながらも敬虔な人々」という宗教的な意味合いもあるということ。 また、ミツが復活病院に戻ったのは、彼女と病棟の〈みんな〉がお互いの《賜物》を分かち合うためなのだということを書きました。きょうはその補足と、わたしが《賜物》をいただいた話を読んでいただきます。そして、『わたしが・棄てた・女』の最終章に進みたいと思います (続きを読む、PDF形式)。
第26回 前回は、神からいただいた<賜物>を私たちが互いに分かち合うことの大切さを書きました。「わたしには<賜物>なんて、与えられているのかな?」とお思いの方。心配なしです。聖書には『人はそれぞれ神から賜物をいただいている』(『コリントの信徒への手紙』7章7節)とあります。安心してください (続きを読む、PDF形式)。
第27回 前回は、ミツが修道女でさえむずかしい「愛徳の実践」を患者さんたちに行えたのは、イエスの言う<幼児>のような女性だったからであり、私たちがミツのような生き方をしようとすると、そこに立ちふさがる<理想>と<現実>の大きな落差がある・・・ということを書きました (続きを読む、PDF形式)。
第28回 前回は、私たちの苦しみを主(イエス)も分かち合っていてくださるということ。また、ミツの人生は私たちに、現在の自分を見直す問いをつきつけているということを書きました。ミツはその短い生涯を閉じました。その死は、私たちに何を語っているのでしょう (続きを読む、PDF形式)。
第29回 前回、私たちは <小さな死(別れ)>を経験しながら、人間として成長していくのだということを書きました。きょうは、ミツの生涯が吉岡に、そして私たちに遺した<痕跡>について考えていきましょう (続きを読む、PDF形式)。
第30回 前回、ミツの一生は<他者に仕える人生>であり、彼女は意識していなくても、「神の声《くたびれた顔の囁き》に耳を澄まし続けた」生涯だったと書きました。『(遠藤文学の)すべての作品雄基調にあるのは<愛>と<聖化>を希求する氏の真摯な姿勢であ』ると、武田友壽氏は書いています。今回は現代社会の危機的状況を取り上げながら「愛」について考え、『わたしが・棄てた・女」に沿った話をまとめたいと思います (続きを読む、PDF形式)。

第31回 この連載も31回目を向かえ、今回から内容も新たにスタートしようと思います (続きを読む、PDF形式)。
第32回 空の鳥を養い、野の花を着飾ってくれる神。だからこそ私たちは、<生かされている命>を「感謝」し、あれこれ余計な心配はせず、神さまに自分をおまかせしながら、いただいた きょう という日を過ごそう −とイエスは語っています (続きを読む、PDF形式)。
第33回 第一部(第1回〜第30回)で、愛・罪・天地創造・人間の誕生・苦悩の意味・・・など、キリスト教信仰の中で、とても重要な事項についていくつか書きました。これらは教義の内のほんの一部にすぎません (続きを読む、PDF形式)。
第34回 前回は、「神の国」は「ここにある」「あそこにある」というものではなく、「あなたがたの間にある」つまり「人と人との交わりの中にある」ということを書きました (続きを読む、PDF形式)。
第35回 前回は、「自然奇跡物語」の中から『パン増やし』の奇跡について書きました。(中略)今回は、『あぁ、そうなんだ塾」でおなじみの山浦玄嗣先生が、この箇所をどんなふうにお読みになっているかをみていきましょう (続きを読む、PDF形式)。
第36回 今回から「奇跡物語」の中で、<治癒奇跡物語>と呼ばれる話についてみていきましょう。福音書に出てくる「病」には次のようなものがあります (続きを読む、PDF形式)。
第37回 きょうはまず、『マルコによる福音書』1章40〜50節が山浦先生の『ガリラヤのイェシュー』ではどう書かれているかを読んでみます。そして、<奇跡物語>が内包している大切なイエスのメッセージとは何かをさぐります (続きを読む、PDF形式)。
第38回 これまで「奇跡物語」について書いてきましたが、ある読者の方から、「みねさん、結局『奇跡物語』って本当にあったことなの、それとも作り話なの? どっち?!」― という質問をいただきました。今回はそれについて書いてみます (続きを読む、PDF形式)。
第39回 今回は、カトリック司祭である雨宮 慧先生に助けていただきながら「奇跡物語」のまとめをしようと思います (続きを読む、PDF形式)。
第40回 今回は「召命」について書こうと思います。4月17日金曜日、わたしにとって大切な方が帰天されました (続きを読む、PDF形式)。
第41回 キリスト教についてあまり詳しくない方でも、「イエスは十字架に付けられて殺され、3日目に復活した」ということは知っておられるのではないでしょうか (続きを読む、PDF形式)。
第42回 「神は私たち人間を守り、救うために律法をお定めになった」。私たちを大切にしてくださる神さまが定めた律法 (続きを読む、PDF形式)。
第43回 イエスは、自分がユダヤ社会の指導者階級の指図により捕らわれ、十字架にかけられることを予感していました。なぜイエスは、その理不尽な人生の結末を受け入れたのでしょう。今回は、その十字架への途上での出来事とイエスの言動をみていきます (続きを読む、PDF形式)。
第44回 今回は、イエスが逮捕され裁判にかけられる過程を追いながら、そこで織りなされるいくつかの人間模様を見ていきたいと思います。その中に「わたし」が、そして「あなた」がいます (続きを読む、PDF形式)。
第45回 「宗教裁判」により「冒?罪」に処せられたイエス。さらに二つ目の「政治裁判」にかけられます (続きを読む、PDF形式)。
第46回 ピラトはユダヤ教指導者や群集の要求を受け入れ、イエスを十字架刑に処する命令を下しました (続きを読む、PDF形式)。
第47回 今回から、弟子たちがイエスの死にどう向き合い、師が残されたいくつかの「謎」をいかに受けとめたか。また、『キリスト教を理解するための鍵は、「イエスの復活」への信仰をどのように理解するか』にあり、『キリスト教信仰は、この復活信仰ぬきにしてはあり得ない』といわれる〈復活〉について考えていきたいと思います (続きを読む、PDF形式)。
第48回 キリスト教が世界宗教へと発展していくうえで、重要な役割を果たした人々のうちの一人がパウロです。今回はその人物像と、彼の「復活したイエス」との出会いについてみていきたいと思まいます (続きを読む、PDF形式)。
第49回 今回は、弟子たちがどのようにイエスの生涯を捉え直し、原始キリスト教団を成立させていくかをみていきます (続きを読む、PDF形式)。
第50回 今回は、弟子たちがイエスはなぜ刑死しなければならなかったのかという「謎」を解明する鍵を、『イザヤ書』から見つけ出したことについてみていきましょう (続きを読む、PDF形式)。
第51回 今回は、イエスの<贖罪としての死>と、それに関連するキリスト教信仰の重要なテーマの一つである「原罪」についてみていきましょう (続きを読む、PDF形式)。
第52回 今回は、「アダムとエバが犯した罪を、なぜ私たちが負わなければならないのだろう?」という疑問について考えていきましょう (続きを読む、PDF形式)。
第53回 第50〜51回で、弟子たちはイエスの十字架上の死を「私たちが犯してきた罪をイエスが代わりに担ってくれた」、すなわち「贖罪行為」としての死と理解した ― ということを書きました (続きを読む、PDF形式)。
第54回 カトリック教会のミサは、「父と子聖霊の御名によって」という司祭(神父)のことばに合わせて、胸の前で十字架のしるしをして始まります (続きを読む、PDF形式)。
第55回 これまでイエスの受難と死、復活、そして前回「聖霊」の派遣(『ヨハネ』14章)についてご説明しました (続きを読む、PDF形式)。
第56回 「1+1=2」 ─ ですよね。どう考えたって、答は「2」以外ありません。わたしの友だちにおもしろいヤツがいて、小学5年生にもかかわらず「あのさぁ、1たす1は2とは、限んねェよな!」と言った友だちがいました。「だってよォ、丸い粘土一つに、もう一つの丸い粘土くっつければ、1個になるだんべな。だから1たす1は1のときもあるだろ!」。「なるほど! こいつ、おもしれぇこと言うなぁ …」と感心したことがありました。 きょうから「1+1=1」どころか、「1+1+1=1」というお話をしようと思います (続きを読む、PDF形式)。
第57回 前回は、父なる「神」、子なる「キリスト」、「聖霊」は〈唯一の神の、三つの異なるあり方〉であるというお話を書きました。そこで山浦玄嗣先生の解釈をご紹介しましたが、まだ十分ご説明できなかったので、まずはそのことから始めます (続きを読む、PDF形式)。
第58回 第33回から、この『…塾』を読んでくださっているお二人の方からのご要望にお応えした内容をつづけてきました。今回はその最後の項目になります。「聖母マリアについて教えてほしい」 (続きを読む、PDF形式)。
第59回 前回、『マタイ』1章24節『見よ、乙女おとめが身重みおもになって男の子を産むであろう』という箇所をご紹介しました。ここで「乙女おとめ」と訳されている語・「almahアルマ−」は、原語のヘブライ語では単に「若い女・娘」という意味なのに、『七十人訳聖書』を編纂した人たちが『イザヤ書』においてギリシャ語の「乙女・処女」にあたる「Parthenosパルテノス」と訳した ─ と書きました。「処女懐胎」という言葉に対して、ほとんどのみなさんは「そんなこと、あるわけないでしょ!」と思われたのではないでしょうか。きょうはこの問題から考えていきましょう (続きを読む、PDF形式)。
第60回 これまで、「十字架」「復活」「贖罪」「聖霊」そして「聖母マリア」 についてお話ししてきました。キリスト教になじみのないみなさまにとっては、信じがたい内容が多々あったと思います (続きを読む、PDF形式)。
第61回 山浦玄嗣先生の著書『イチジクの木下で』の本の帯に、「聖書は楽しい本です。思い切って聖書を楽しみまょう。そこにはわたしたちの人生を喜ばしく幸せなものに作り上げて行く知恵がいっぱい詰まっています」という言葉があります (続きを読む、PDF形式)。
第62回 9か月になった孫のヒロくんは、最近「つまり立ち」ができるようになりました。横になっていただけの赤ちゃんが、寝返りをうち、這い這いを始め、つかまり立ちができるようになり… と、 小さないのちの、一歩ずつの成長を見るは感動的であり神秘的でもあります (続きを読む、PDF形式)。
第63回 イエスのその言葉 を読んだとき、 「あっ、オレは絶対にクリスチャンになれない…と思いまし た。 きょうはその話をいたします (続きを読む、PDF形式)。
第64回 前回、「色情をもって女を見る者は …」の意味を考えましたが、そのあとに続く文にも追い打ちをかけるように、どう受けとったらいいのかわからない箇所がありませんでしたか? (続きを読む、PDF形式)。
第65回 プロ野球は阪神ファンのわたし。「どうして?」 と聞かれたきは 「いつも 「いつもハラハラ・ドキドキ・ワクワクさせてくれるから 」と答えてい ます (続きを読む、PDF形式)。
第66回 亭主に浴びせられる女房の問いうち、いちばん難しくやっかいなものはなんでしょう? (続きを読む、PDF形式)。
第67回 高3のわたしは、子どもの頃の夢を追いかけ「医学部」受験を試みました (続きを読む、PDF形式)。
第68回 暑いですねェ〜。これを書いているのは7月の中旬から下旬。毎日の蒸し暑さに閉口しています。ただでさえ良くない頭のはたらき もその影響を受けて活発ではないので、今回はいつもより 「リラ ックスして読める話」 をしようと思います (続きを読む、PDF形式)。
第69回 「お金」─ ほしいですよね、たくさん。あなたは宝くじを買ったことがありますか? (続きを読む、PDF形式)。
第70回 今年の上智大学夏期神講習会 (7月 29 〜30 日)の第2日に、イエズス会の酒井陽介神父の『ヘンリー・ナウェン ─ 壁を越えて、つながる人 ─ 』という講義がありました (続きを読む、PDF形式)。
第71回 このところ孫たち (3歳、5歳)は保育園の帰りに、「おじいちゃん、きょうかいによって!」ともうおねだりします (続きを読む、PDF形式)。
第72回 セントラルリーグのペナレス「3位」(73勝)の横浜が、78勝の阪神、88勝で独走優勝の広島を破って日本シリーズ出場─というバカしい「似非日本シリーズ」がやっと終了しました (続きを読む、PDF形式)。
第73回 日馬富士、引退 (続きを読む、PDF形式)。
第74回 黄斑変性、 軽度の白内障、脊柱管狭窄症による腰痛、バネ指 … 。今まで縁遠かった名前の症状が出て、 どこの病院でも「加齢からくるものですね」と言われます (続きを読む、PDF形式)。
第75回 数年前まで桐生市内の聖フランシスコ修道院にいらした大友恭彦士様が「金祝」 (50周年)を迎えられ2月5日聖ヨゼフ修道院 (東京・六本木)にて記念ミサと祝賀会が行われました (続きを読む、PDF形式)。
第76回 お久しぶりです。前回から2ヶ月近く経ってしまいました (続きを読む、PDF形式)。
第77回 「神さまがいるのなら、なぜ、ハンディキャップがある子が生まれてくるのだろう?」 (続きを読む、PDF形式)。
第78回 社会的地位・名声・権力 … を得た人たちが事実を隠蔽し、ウソで自分や組織を守ろうとする出来事が連日報道されています (続きを読む、PDF形式)。
第79回 クソ暑い日々に加えて、我が家(わたし)に大型台風が襲来しまた。その名は「ヨブ台風」 (続きを読む、PDF形式)。
第80回 今回から「人間がもたす悪」について考えきます (続きを読む、PDF形式)。


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